30歳過ぎのエンジニアだった私が資格試験を目指した理由

私は、33歳で行政書士、34歳で社会保険労務士、36歳で不動産鑑定士、37歳で日商簿記検定1級、39歳で公認会計士試験に合格しました。

30歳過ぎのエンジニアだった私が、資格試験にチャレンジするに至った経緯は以下の通りです。

サラリーマン時代に契約書の重要性を痛感

  私が、入社後、配属されたのは、海外向け化学プラントの制御システムを設計する部署でした。

化学プラントの設計というのは、クライアントと合意した契約書をベースに作業を進めていくことになるのですが、その際、こちらが作成して、クライアントに提出した仕様書に対して、クライアントから「仕様書が契約書の内容と違う」という指摘を受けることがしばしばありました。

中には、見解の相違と言えるものも多数ありましたが、明らかにこちらが契約書の内容を見落としていたものもありました。

これにはいろいろな理由がありますが、その一つは、見積もりの段階で、契約書の前提となる、クライアントから提示された見積条件書の内容を見落とし、そのまま契約してしまい、設計段階でも見落としてしまうというものです。

見積条件書等の資料はファイル何十冊にもなり、そのすべてが英文である上に、非常に限られた時間で見積りを行わなければならなかったことが、見落としの一因でした。

理系出身の私は、それまで、契約の重要性など、あまり深く考えたことがなかったのですが、このとき、契約について勉強しなければならないことを痛感しました。

そこで、書店に立ち寄り、契約関係の書籍を探しているうちに、契約について勉強するには、民法という法律を勉強しなければいけないことを知り、さらに、法律系資格の登竜門ということで「宅地建物取引主任者試験」に出会いました。

どうせ勉強するなら、何か目標があった方が、身に着くのではないかと思い、「宅地建物取引主任者試験」にチャレンジすることにしました。

入社3年目のときでした。

難しかった宅地建物取引主任者試験

さっそく書店で、テキストと問題集を何冊か買い込み、主に、平日の通勤時間と土日を使って、勉強を始めたものの、大学受験以来、久しく、きちんと勉強をしていなかったこと、および法律の「ホ」の字も分からないにもかかわらず、無謀にも独学であったため、自分の理解力のなさ、根気のなさに嫌気がさす日々が続きました。

書籍には「宅建試験は比較的簡単」と書いてありましたが、私のような初心者には決して簡単ではありませんでした。

何度も挫折しそうになりましたが、その当時は、バブル崩壊後の厳しい経済環境であり、リストラはもちろん、大企業といえども倒産してもおかしくない状況でしたので、危機感から、なんとか挫折せず、合格ラインギリギリで合格できました。

最初は、法律(契約)の勉強が目的でしたが、いつしか、勉強の目的が、リストラや倒産にあった場合の備えとしての位置付けに変わってきました。

というのも、私の行っていた業務は、総務や経理といったどこの会社にでもあるようなものではないので、何かあった場合、転職も容易ではないと思えたからです。

社会保険労務士試験の勉強を始める

宅建試験の勉強で得られたものの一つに、自分がいかに社会一般常識に無知であったかを自覚することができたことが挙げられます。

それまでは、給与明細を見ても、「何やらいろいろなものが引かれて手取りは随分少なくなるんだな」程度の認識しかありませんでしたが、宅建試験を勉強するようになってからは、そもそもどういう仕組みでこれらのものが控除されるのかに関心を持つようになっていました。

税金が引かれるのは、さすがの私も知っていましたが、厚生年金保険料、健康保険料、雇用保険料などは、社会人になってはじめて、こういうものが控除されるんだということを知りました。

そこで、宅建試験合格後に、書店に行き、これらについての書籍を探したところ、社会保険労務士の資格に出会うことができました。

宅建試験と同様の理由から、資格取得を兼ねた方が身に着くと思い、さっそく勉強をはじめました。

宅建のときと違うのは、独学は自分には無理だと思い、休日に専門学校に通うことにしたことでした。

途中で挫折

1月から、毎週土曜日、朝から専門学校に行き、講義を受けるようになりました。

講義が非常に分かりやすかったので、平日の仕事の疲れが残っていましたが、眠くはなりませんでした。

その専門学校では、講義を始める前に、前の週に講義した内容の理解度を試すために、ミニテストというものを行い、翌週に、成績順位表を渡してくれるのですが、毎回、上位に名前を載せることができたため、このままいけば合格できるのではと思っていました。

ところが、試験の願書を出してから何日か経った頃、上司からフィリピンへ長期間出張するための準備をするよう命じられました。もちろん、その当時、自分がフィリピンのプロジェクトに関わっていたため、いずれ出張することになることは分かっていましたが、こんなにも早まるとは思ってもみませんでした。

そこで、私は、勉強するのを止め、出張に備えることにしました。

もともと自己啓発で始めたものであり、仕事優先ではあったのですが、少なからずショックでした。

ところが、しばらくして、フィリピンの建設現場側の受け入れ態勢が整っていないために、出張を延期するよう現地から要請があり、出張が大幅に延期されることになりました。

その結果、私は、受験することが可能となり、慌てて勉強を再開したものの、時すでに遅しで、試験結果は無惨なものでした。

当時は、試験は7月の平日で、今のような選択式ではなく、記述式とよばれる、自分で単語を書かないといけない形式だったのですが、有給休暇を取得してまで挑戦したにもかかわらず、記述式で5問中1問も埋められない科目が何科目かあり、試験終了後、不合格を確信しました。

こうして私の社会保険労務士試験の初受験は終わりました。

再起を誓う

試験が終わり、しばらく経ってから、現場サイドの受け入れ態勢が整ったため、私は、フィリピンへ行くことになりました。そこで、約半年間、現場監督として、平日の残業はもちろん、土日もなく働きました。

化学プラントは、契約で合意した納期限までに、完成させ、クライアントに引き渡さなければなりません。そうしないとクライアントの生産計画も狂ってしまいます。

そのため、納期限までに完成引き渡しができなかった場合、ペナルティ(遅延料)が発生するのが一般的です。

そうならないように納期を守るのが至上命題です。

しかし、現地の人(この場合はフィリピン人)を監督しようとしても、なかなか思い通りにならないのが現実です。

私の役割は、配線が完了した現場計器からの模擬信号が、正しく中央制御室に送られてくるかのテストを指揮監督することだったはずでしたが、完了していなければならないはずの配線が完了していなかったり、完了しているものでも配線が間違っているものなどが多数あり、監督というよりも一作業員として、ドライバーとテスターを手に自ら配線を行い、また、配線のミスを見つけ出したりしていました。

このような状態であったため、フィリピンにいる間は、試験のことはすっかり忘れていました。

しかし、半年経って、日本に戻り、立ち寄った書店で、何気なく手にした社会保険労務士試験の「合格体験記」をパラパラ見ていた時、専門学校で同じクラスだった方の合格体験記に目が留まりました。その方もミニテストでは、いつも上位に名前を連ねていました。

その方の体験記を読み、「自分はなぜ途中であきらめてしまったのだろう」と自分が情けなくなると同時に、必ず合格するぞと決意をしました。

空白の期間

フィリピンから日本に戻り、会社に出社すると、上司から、「サウジアラビア向けの化学プラントの設計を、今、アメリカの設計会社に委託して行わせているが、先に向こうに行っている日本人が、人をひとりよこしてくれと言ってきているので、すぐアメリカに行くよう」命じられました。そのため、日本に戻って落ち着く暇もなく、アメリカへ行くことになりました。

前半は、設計会社があるカリフォルニアで設計のチェックを行い、後半は、制御システムメーカのあるテキサスで制御システムのテストを行い、あわせて1年ほどアメリカに滞在しました。

制御システムのテストが完了し、サウジアラビアへ向けて出荷準備が始まった段階で、アメリカから日本に戻り、ビザが取れるまでの数週間だけ日本に滞在し、ビザ取得と同時にサウジアラビアへと向かいました。

このプロジェクトは短納期の契約であったことから、フィリピンと同様、平日の残業はもちろん、土日もなく働きました。

コンテナのような施設の中をべニア板で仕切った部屋で寝泊まりし、毎朝、マイクロバスに乗り込み、夜、マイクロバスに乗って帰ってくるという日々の繰り返しでした。まるで、囚人のような生活でした。イスラム教の国なのでお酒も飲めませんでした。

1年数か月、サウジアラビアで過ごしましたが、休んだのは3日だけだったと記憶しています。

やっとの思いで任務完了し、日本に戻ったときは、2000年も半ばを過ぎていました。

人生の選択肢を増やす

2000年に日本に戻ってきてからは、サウジアラビアの現場で行った、設計変更などの手書きの図面を持ち帰り、その変更内容を、ソフトウェアを使って電子的に図面に反映させ、クライアントに提出するという作業を行っていました。相当な枚数の図面を修正しなければならなかったため、数か月を要しました。

その作業が収束してきた頃、上司から、イラン向けの化学プラントの設計業務を担当するよう命じられました。

このプロジェクトは、ちょうどスタートしたところであり、日本での設計期間が2年ほどあることと、現地でのプラント建設は、クライアントが自分たちで行うという契約であったため、今回は、長期間、海外出張に行かなくてもよさそうでした。

ようやく時間ができたのですが、2000年後半から2001年前半にかけては、結婚、引っ越しなどのプライベートな事情で時間がなかなか作れませんでした。

プライベートも落ち着いたので、社会保険労務士試験の勉強を再開しました。(再開といっても内容をほとんど忘れていました)

2001年の試験は、すでに願書の申込が終わっていたため、2002年に向けて勉強を始めたのですが、社会保険労務士試験は、毎年、法律改正が行われ、改正点が試験に出題されることも多い試験なので、あまり早くスタートしても、混乱する可能性が高いと考え、2002年受験向けの参考書が書店に並ぶ頃からスタートしようと方針を変更しました。(今回は専門学校には通わず、市販の書籍、問題集で勉強する予定でした)

社会保険労務士試験は、いつの間にか、試験制度が「記述式」から「選択式」へと変更され、試験も7月の平日から8月の日曜日に変更されており、驚きました。

同様に、行政書士試験も、1999年まであった800字論述という小論文のようなものが、2000年からの新試験制度で廃止され、私のような作文の苦手な者にとっては受験しやすい制度に変更されていました。(2006年にさらに変更されました)

じつは、法律(契約)の勉強をしようとしたとき、法律系資格の登竜門として、宅地建物取引主任者試験だけでなく、行政書士試験も知ったのですが、その当時は、800字論述があったため、迷わず、宅地建物取引主任者試験を選択した経緯があったので、その障害がなくなったことと、2001年の試験まで、今からでも間に合うかもしれないと思い、こちらから先に勉強することにしました。

私の資格取得の目的は、上で書いたとおり、いつしか、リストラや倒産といった不測の事態に備えるものに変わっていきましたが、この当時、「資格で人生の選択肢を増やせ」というWセミナーの司法書士講座の講師である竹下先生の著書を読み、自分のやろうとしていることは、まさにこのタイトルのとおり、自分の力で自らの選択肢を増やしたいということに気がつきました。

会社では、リストラや倒産はないものの、業績のよい事業部門と統合され、いずれ何人も転勤になるかもしれないという話もちらほら聞こえ始めてきました。

行政書士試験

行政書士試験の勉強を始めるにあたり、専門学校へ通うことも考えましたが、試験まで3か月程しかなく、この時期から、初学者向けのコースでスタートするものはなさそうだったので、やむなく市販のテキスト、問題集を買い込み、勉強に取り掛かりました。

宅建のときとは違い、書籍の「行政書士試験は比較的簡単」という文句には、もう踊らされませんでした。

往復の通勤時間はもちろん、平日の夜、土日と、空いている時間は、ほとんど勉強に充てたと思います。

その結果、2001年の試験に合格することができました。(合格発表は2002年) 

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社会保険労務士試験への再挑戦

2002年の行政書士試験の合格発表後に、社会保険労務士試験の勉強を再開させました。

テキストは、自分が以前通っていた専門学校が出版している、科目ごとに1冊になったものを使いました。問題集は、その専門学校が出版しているもの以外にも5,6冊購入し、基本的には、これらを繰り返し解くという方法をとりました。専門学校主催の模試などは受けませんでした。

そして、2002年の試験になんとか合格することができ、ようやく4年前の決意を実現させることができました。

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新たな挑戦

私の資格試験への挑戦は、以上で終わるはずでした。

ところが、社会保険労務士試験の受験終了後、「公認会計士試験の試験制度が変更され、社会人にも受験しやすくなるのではないか」といった情報をどこからか入手し、興味を持ちはじめました。

大学生のとき、同じ大学の人が大学を休学して試験に挑戦しているという話や、友人の兄が何年も挑戦しているという話を聞いていたので、難しすぎて自分には無理と当時は思っていましたが、このときは状況が違っていました。常に危機意識を持っていたので、自分で内容を調べてみる気になりました。

そこで、不動産鑑定士第二次試験合格者は、民法と経済学を選択すれば、公認会計士第二次試験の論文式試験7科目中2科目を免除にできるということを知りました。

もちろん、不動産鑑定士については、宅建の勉強のときに、上位資格として位置付けられており、難しいことは知っていました。

この2つの試験に関して、合格体験記などをいろいろと購入し、読んでみましたが、特に公認会計士については、とても34歳過ぎの自分が今から勉強して合格できるとは思えませんでした。

当時、私が持っていた公認会計士第二次試験の合格体験記には、35歳過ぎの合格者は一人も載っていませんでした。

不動産鑑定士第二次試験の合格体験記には、35歳過ぎの合格者も、多くはありませんでしたが載っていたので、何年かかるか分からないが、とりあえず、不動産鑑定士第二次試験→公認会計士第二次試験のルートでやってみようと思いました。

そこで、社会保険労務士試験合格発表翌日に、かつて社会保険労務士試験講座でお世話になった専門学校に行き、2003年不動産鑑定士第二次試験合格目標の講座を申し込みました。

この頃、イラン向けの化学プラントの設計が収束し、現地での建設が始まりつつありました。このプロジェクトは、先ほども書いたように、建設はクライアントが行う契約だったので、上司から、次は、シンガポール向けの化学プラントの設計を担当するよう命じられました。

不動産鑑定士第二次試験Fランク(最低ランク)不合格

シンガポール向けの化学プラントもスタートしたばかりだったので、すぐ海外へということはなかったのですが、このプロジェクトは、設計の大部分をインドの設計会社へ委託していたので、タイミングを見計らって、自分がインドへ行くことになっていました。その時期は、2003年の秋ごろだったため、ひとまずは、安心しました。

2003年の年明けから、毎週土日に、専門学校のある水道橋へ行き、ビデオブースで講義を受けたのですが、この頃は、今まで蓄積していた疲労がどっとでて、眠ってしまい、気付いたら講義が終わっていたということもよくありました。

論文式の試験であるにもかかわらず、答練なども一枚も書くことなく、解説のビデオだけ視聴して、資料をもらって帰るという状態が続きました。

そのような中で迎えた2003年の試験は、いうまでもなく不合格でした。しかも、Fランクという足切りでした。

不動産鑑定士第二次試験では、不合格者を上位からA、B、C、D、E、Fとランク分けするのですが、Fランクというのは、一番下のランクです。

やはり、生半可な気持ちではまったく歯が立たないことを実感しました。

そして、合格発表後、しばらくして、予定通り、インドへ行くことになりました。

スーツケースに、専門学校で使用したテキスト、問題集、答練をつめ込んで。

二つの選択肢

専門学校で使用したテキスト、問題集、答練をスーツケースにつめ込んで、インドのムンバイに行きましたが、よく考えると、2004年の試験の日までに日本に戻ってこられる保証などどこにもないことに気付きました。

というのも、インドでの設計業務が遅々として進んでいなかったからでした。

先方の担当者にこちらが、設計者が足りないなら、設計者を増やして作業を急ぐように言うと、「よその会社の人間が、自社の体制に口出しをするな」や「設計者を増やしてほしいならお金を追加で支払ってくれ」と言われる始末でした。

どこの国でもそうですが、友人として付き合う分には、まったく問題ないのですが、仕事になると皆非常にシビアでした。彼らも利益を出さないといけない以上、当然と言えば当然でした。

自分自身、残業、休日出勤で少しでも遅れを取り戻そうとする日々が続き、テキストなどを見る時間はほとんどありませんでした。

インドでは、ホテルに滞在していたのですが、このままいくと、「2004年の試験は、仮に受験できたとしても合格はあり得ないな」、「2005年はシンガポールの現地に行くことになるだろうから、この年も無理だな」、「2006年はどうなっているかな?」といったことが脳裏をよぎり、試験勉強を断念しようと思ったことが何度もありました。

そして、選択肢は、二つに絞られました。一つは、退職して、不動産鑑定士試験に専念すること、もう一つは、不動産鑑定士試験の勉強を断念して、このまま会社に残ること。

退職そして合格

どちらの道に進むか、来る日も来る日も思い悩みました。

よく考えたら、退職して勉強に専念したからといって合格できる保証などどこにもありませんでした。

最終的には、高杉良氏のノンフィクション小説「生命燃ゆ」の化学プラントエンジニアである主人公が、白血病で亡くなるときに言った、「未練はあるが、悔いはなし」のように、自分も悔いの残らない道を進みたいと考えたため、退職して専念する道を選びました。

そして、日本にいる上司にその旨を伝え、日本へ戻り、約1か月かけて引き継ぎ業務を行い、2004年のゴールデンウィークから勉強に専念しました。2004年の試験まであと3か月ほどしかありませんでした。

上司に退職理由を聞かれ、「不動産鑑定士、公認会計士の両試験の勉強に専念したいので退職させてほしい」旨の話をしたところ、非常に驚かれたのが印象的でした。

「35歳を過ぎたいい大人が、自分で何を言っているのか分かっているのか」、「正気なのか?」とおそらく思われたと思いますが、私は正気でした。

そして、2004年に、なんとか不動産鑑定士第二次試験に合格することができました。

不動産鑑定士第二次試験は、前年の2003年は、合格者336人、合格率13.4%だったものが、2004年は、合格者224人、合格率10.6%(2005年は、合格者170人、合格率7.4%)と2006年の新試験制度へ向けて、難化していく過渡期にありました。当然、2004年の受験当時は、そんなことは分かりませんでした。

全答練で総合B判定の成績だったので、合格も決して手が届かないものではないと思っていましたが、合格発表を見て、「合格者が前年より100人以上減っているにもかかわらず、よく合格できたものだ」と思ったことを今でも鮮明に覚えています。

不動産鑑定士については、合格体験記を書く機会を与えて頂くことができました。                               

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再度の二つの選択肢

2004年の不動産鑑定士第二次試験終了後、合格の確信はありませんでしたが、とりあえず、専門学校(社労士、鑑定士と同じところ)で、公認会計士講座の入門、基礎期の部分のみを通信講座で申し込みました。合格発表までの間に、少しでも会計士の勉強を進めるつもりでした。

ところが、不合格だった場合、もう一年、鑑定士の勉強をするつもりだったので、不動産鑑定評価基準の暗記の精度が落ちないようにしたり、民法の復習をしたりで、会計士の勉強はほとんど進みませんでした。

そして、合格発表を迎え、これで、会計士の勉強に専念できるハズでしたが、ここで、また、迷いが生じました。それは、会計士の勉強をするか、就職活動をするか、どちらにするかの迷いでした。

世間では、35歳転職限界説がささやかれており、私は、すでに、この時点で限界を過ぎていました。

もちろん、退職する前から、このようなことは分かっていましたが、私にとって、退職後の受験勉強は孤独でつらいものでした。

鑑定士試験の勉強中の3か月間は、家族以外と話さない日もめずらしくありませんでした。

会計士試験も通信講座でやっていくつもりだったため、このような状況に1年以上も耐えられるか不安がありました。

最終的には、自分にとって後悔しないのは、会計士の勉強だと、腹をすえ、2005年の年明けから本格的に勉強を開始しました。

日商簿記検定1級、税理士試験(簿・財)に挑戦(2005年)

私の合格目標年度は新試験制度が始まる2006年でしたが、とにかく1日でも早く試験範囲の全体像を把握することが重要と考え、2005年合格目標の通信講座を申し込んでいました。申し込みの際、受け付けの女性から、「今から申し込んでも2005年には間に合いませんが・・・」と少し困惑されたのを今でもよく覚えています。

2005年の年明けには、大量のテキスト、カセットテープが送られてきていました。

あまりの多さに圧倒されましたが、簿記の入門講義からカセットテープを聞き始めました。

自宅では、どうしても甘えが出てしまうので、電卓を使う計算科目の勉強は、専門学校の自習室、理論科目の勉強は、図書館、ファーストフード店、ファミリーレストランなどをよく利用していました。

専門学校の自習室で勉強するようになり、驚いたのは、皆、電卓を打つスピードが恐ろしく早いことでした。右利きの人は、右手にペンを持ち、左手で電卓をブラインドタッチが当たり前でした。こういう人達と勝負するのかと思うと、逃げ出したくなりました。なにかとんでもなく場違いなところに来てしまったのではないだろうかとそのときは思いました。最初から戦意を喪失しかけましたが、もう後には戻れません。やるしかありません。

ちなみに、私は右利きですが、今でも、右手でパチパチとしか電卓を打てません。もちろん、ブラインドタッチなんてできません。それでも合格できるのです。

1年以上先の目標に向かってモチベーションを維持するのは、私のような凡人にはとても無理なので、2月に日商簿記検定2級、6月に1級、8月に税理士試験の簿・財を受験することにしました。

しかし、気がつくと日商簿記検定2級の申込は終わっていたので、6月の1級、8月の税理士試験の簿・財に照準を合わせ、カセットテープを聞き、問題を解く日々が続きました。(通信講座でしたが、添削してもらったことも質問したこともありません。自分で問題を解いて自分で答え合わせをしていました)

その結果、1級については、79点という高得点ではありませんでしたが、なんとか合格することができ、税理士試験については、「簿記論」は合格しましたが、「財務諸表論」はA判定の不合格でした。

      

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あと一歩だった不合格(2006年)

2005年の論文式試験が終わる8月下旬頃から、2006年合格目標の上級コースがスタートするので、そのタイミングで、上級生でも何でもなかったのですが、2006年合格目標の上級コースを申し込みました。

今回は、集合VTRという、録画されたVTRが、教室に流される形式のコースを選択しました。このコースは、答練を教室で受けることができたので選びました。

合格体験記には、答練が非常に重要だと書かれていました。

そして、いよいよ、臨戦態勢となるはずでしたが、2006年になってから、モチベーションを維持するのが非常に難しくなってきました。気がつくと、やる気がなくなっているのです。先が見えないということが大きな原因だったと思います。答練を受けても、短答式のほうはそれなりの点数が取れるのですが、論文式はなかなかよい点数は取れませんでした。実力者がいっぱいいるのですから当然です。そうすると、負のスパイラルで、いつしか答練を受けなくなっていました。ただ、短答式のほうは、家族に一応ちゃんと勉強しているという証拠を見せる必要があったので、なんとか受けていました。

この時期が、私にとっては、一番つらいときでした。

点数は上がらなくても、モチベーションを上げようと、この当時いろいろな本を読みました。

@    「全盲の弁護士竹下義樹」小林照幸 著 岩波書店

A    「子育て主婦の公認会計士合格記」小長谷敦子 著 中経出版

B    「ヤンキー弁護士になる」金崎浩之 著 講談社

C    「脱会社人 サラリーマンが弁護士を目指した理由」福田直邦・堤博之 共著 早稲田経営出版

その他にも、多数読み、なんとかモチベーションを上げようともがき苦しみました。

そうこうしているうちに、5月になり、短答式試験を受験しました。

結果は、財務会計論150点、監理会計論80点、監査論85点、企業法95点の410点/500点(得点比率82%)で合格できました。(この年の合格得点比率は69%以上)

(写真は、保有個人情報の開示請求によって公認会計士・監査審査会から入手したものです)  

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短答式試験終了後、自己採点を実施し、合格を確信したので、すぐさま論文式の勉強に取り掛かりました。

そして、途中の8月の初旬に、前年不合格だった税理士試験の財務諸表論を挟んで、8月下旬に論文式試験を受験しました。

結果は、財務諸表論は合格、論文式はA判定(不合格者中1位〜500位)の不合格でした。自分の弱さが表れた結果でした。ただ、会計学が科目合格だったことがもがき苦しんで得られたもののように思えました。

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専門学校の論文式全国統一公開模試で全国7位に(2007年)

論文式試験終了後、監査法人等への就職活動をするのが一般的でしたが、私は、手ごたえがなかったことと、退職金はとうになくなり、貯金もどんどん減っていく状況だったので、試験終了後の2006年9月から2007年の2月まで、約半年間、宅配便の仕分け業務などのアルバイトをしました。汗びっしょりになっての作業は、結構きついものがありました。そのため、この間は、ほとんど勉強ができませんでした。

そして、2007年3月から最後の挑戦のつもりで、勉強を再開しました。

短答式免除および「会計学」という旧二次試験の3科目分の科目が免除になったことで負担は随分軽くなっていました。

そこで今回は、アルバイト代を捻出し、従来の専門学校に加え、別の専門学校の上級講座にも申し込むことにしました。両方ともWEB通信講座でした。

前回を踏まえて今回は、7月に行われる公開模試以外は、答練を受けるのをやめることにしました。(採点してもらうのをやめました)

採点結果に一喜一憂(ほとんどが憂でしたが)しても仕方がないと思い、マイペースで勉強を進めていくことにしました。

「キャプテン」という野球漫画で、主人公が、「おれたちみたいに素質も才能もない者は、こうするしかないんだ」と言って、必死に練習しますが、私も同じ思いでした。素質も才能もなければ努力するしかないと。

そして、7月になり、専門学校の公開模試を受験しました。久しぶりの試験会場での受験で少々緊張しましたが、その時点で持てる、自分の力は、すべて出し切れたと思いました。

結果は、論文式試験受験生約2,000人の中で全国で7位の成績を取ることができました

 

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論文式試験合格(2007年)

それから、1か月後に本試験を受け、合格することができました。

今までのどの試験よりも自信をもって受けることができました。これで不合格なら仕方がないと思えたのは初めてでした。

 自分のわがままのために、ここに至るまでには、家族をはじめ多くの方に迷惑をかけてしまいました。それにもかかわらず、サポートしてくれたことに大変感謝しています。

 

本試験での成績は、合格者4,041人(*)中381位、合格基準点は51.0%以上の得点のところ59.35%の得点でした。模試のようにはうまくいきませんでしたが、何とか合格者の上位1割には

入ることができました。

 (*)旧二次試験合格者1,346人を含む。

(写真は、保有個人情報の開示請求によって公認会計士・監査審査会から入手したものです)

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監査法人入所

 前回と違い、今回は合格していると信じていたので、試験終了と同時に、就職活動を開始しました。

 当時は、J-SOXや四半期レビューがいよいよ開始するという時期であったため、39歳という年齢にもかかわらず、監査法人に入所することができました。

 入所できたといっても、1年目の新人であることに変わりがあるわけではないので、他の新人の人と同様に、挨拶の仕方の研修を受けたり、カバン持ちも行いました。このおかげで、今一度、初心にかえることができました。

 監査法人では、金融機関をはじめ、いろいろな業種の会社の監査を経験するチャンスを与えてもらい、非常に貴重な経験を積むことができ、自分の財産となっています。