フィリピンから日本に戻り、会社に出社すると、上司から、「サウジアラビア向けの化学プラントの設計を、今、アメリカの設計会社に委託して行わせているが、先に向こうに行っている日本人が、人をひとりよこしてくれと言ってきているので、すぐアメリカに行くよう」命じられました。そのため、日本に戻って落ち着く暇もなく、アメリカへ行くことになりました。

前半は、設計会社があるカリフォルニアで設計のチェックを行い、後半は、制御システムメーカのあるテキサスで制御システムのテストを行い、あわせて1年ほどアメリカに滞在しました。

制御システムのテストが完了し、サウジアラビアへ向けて出荷準備が始まった段階で、アメリカから日本に戻り、ビザが取れるまでの数週間だけ日本に滞在し、ビザ取得と同時にサウジアラビアへと向かいました。

このプロジェクトは短納期の契約であったことから、フィリピンと同様、平日の残業はもちろん、土日もなく働きました。

コンテナのような施設の中をべニア板で仕切った部屋で寝泊まりし、毎朝、マイクロバスに乗り込み、夜、マイクロバスに乗って帰ってくるという日々の繰り返しでした。まるで、囚人のような生活でした。イスラム教の国なのでお酒も飲めませんでした。

1年数か月、サウジアラビアで過ごしましたが、休んだのは3日だけだったと記憶しています。

やっとの思いで任務完了し、日本に戻ったときは、2000年も半ばを過ぎていました。

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